2015年6月9日火曜日

2015年ネパール春調査(15) KCHその後

2015年ネパール春調査(15)

KCHその後

写真1 新築直後のKCH(1976年)。

     白石さんとで設計したカトマンズ・クラブ・ハウス(KCH)は、ボーダナート寺院近くのクソン・ノルブ・タワーさん(以下タワーさんと呼ぶ)の敷地のなかに完成した(写真1)。1976年のことであった。KCHの建設資金は、渡辺興亜さんが中心になって日本のヒマラヤ関係者から集めた。このKCHは1990年代半ばまでヒマラヤ関係者の基地としての役割を果たすことになる。そこでまずは、写真1の玄関前にある左右2本の人の背丈よりも小さかった松の木に注目しておいて欲しい。

写真2 渡辺真之さんの隊のKCH玄関でのスナップ(1980年;左がタワーさんで、その右が奥さんのフルバ・チャムジさんか?、後列中央が渡辺真之さん)。

  その役割のひとつの例として渡辺真之さん*の隊は1980年に滞在している。写真2は渡辺さんたちのKCH玄関でのスナップで、後列中央が渡辺真之さん、左がタワーさんで、その右が奥さんのフルバ・チャムジさんのようです。なお、横山宏太郎さんからのメイルによると、「最前列、左は大村誠さん、最後列右は私、当時の汚い姿」とのことです。

*追悼 渡辺真之さん
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.html



写真3 KCLの玄関前〈2003年)。松の木の成長に驚かされた。

  築後17年目で玄関前の小さかった松の木がKCHの建物以上に大きくなっている(写真3)。松の木の根が大きく張って、とくに左側の根が建物左部分の土台を持ち上げていたので、その時案内してくれたJPラマさんと「根切りする必要があるかもしれない」、と話したほどだった。建物の外壁であるが、もともとはコンクリートの打ちっぱなしで灰色であったが、全体が赤茶のレンガ色に塗られていた。

写真4 タワーさんの奥さんの墓前のJPラマさん〈2003年)。

  JPラマさんに案内していただき、2003年にKCHを訪れたが、そのすこし前に、タワーさんの奥さん、フルバ・チャムジさんが亡くなっていた。すでにKCHは契約期間が切れ、タワー家の所有になっており、旧KCHの建物は複数の家族が住むアパートに変わっていた。旧KCHを管理する女性がいたので、タワーさんの奥さんの墓前にお参りをした(写真4)。

写真5 旧KCHへの入り口(2015年)。

  サンクーへの地震調査*の行き帰りに旧KCH前を通ったのであるが、あまりの変わりように、旧KCHの場所を特定することができなかった。今回案内してもらったJPラマさんですら、ビルの合間を幾度となく確かめたうえで、ようやく、自動車修理工場(National Motors)の入口(写真5)を見つけることができた。

*サンクーで考えた。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-2015.html

写真6 旧KCH(赤点線内)玄関前の自動車修理工場内で写す(2015年;パノラマ写真)。

  自動車修理工場の門から中に入ると、思い出の旧KCHはあったが、修理場用のブリキの屋根が邪魔して赤の点線内の旧KCHの建物(写真6)をしかと見つめつことはかなわなかった。しかも、右側の松の木はさらに大きく成長していたが、驚いたのは、左側の松の木が枯れていたことである。大規模な根切りでもしたのであろうか。

写真7 旧KCH前の自動車修理工場内で(2015年;左が J. P. ラマさん)。

  さっそく、旧KCH前と言おうか、自動車修理工場内と言おうか、とにかくJPラマさんと記念写真(写真7)。さて、また1つ変化していたのは、外壁の窓より高い部分が白に塗られていたことであった。

写真8 旧KCH玄関(2015年)。

  玄関(写真8)から中に入ると、各部屋は従業員がすむ宿舎になっている。さらに気づいたのは、旧KCH周辺でも建付の悪い家は倒れたり、ヒビが壁に入っていたりしているが、旧KCHの建物の外壁も内部も無傷で、ヒビなどは見られなかった。

写真9 旧KCH北側の壁と窓(2015年)。

  しかも、北側の外壁をつぶさに見ても、ヒビなどは一切見つからなかった(写真9)。おそらく、タワーさんが建設時に鉄筋やコンクリートの建付をしっかりと監督していてくれたのであろう。また、縦の長さが1m半程もある大きなガラスも健在であったが、面白いことに、その大きな窓ガラスの上の方まで空色のペンキが塗られていた。1970年代の建設当時は周りにほとんど家がなく、周辺の丘陵地と田園風景がよく見えたので、ぼくらは自然の外の風景を見たいと思い、窓を大きくしたのだが、現在の住人は、目隠しのためなのか、または人工的青空を見たいという心境の表れなのであろうか。おそらく、前者であろうと思うが、どうだろう。

写真10 ボーダナート寺院入り口付近で酔いつぶれて寝込む人(2015年)。

  6月6日にサンクー調査*へ行く途中、ボーダナートに立ち寄った時、正門近くで酔いつぶれて寝込んでいる人を見かけた(写真10)。この写真を撮ったのは、実は、タワーさんの最後は悲惨で、奥さんとも別れ、ボーダナートで酒浸りだったというタワーさんを、1990年前後だったと思うが、竹中さんがボーダナートに行き、タワーさんの寝込み姿を写真に収めていたのを想いだしたからである。

*サンクーで考えた。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-2015.html

    20世紀末のネパールは大きく変化した時期だったのではなかろうか。ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊を立ち上げた1973年に、東ネパール・クンブ地域のハージュン調査隊基地を建設し、調査を軌道にのせてくれたペンパ・ツェリンさん*は謎の死をとげている。一説によると、英語やチベット語などの外国語が得意だった彼は、アメリカのCIAもからんだともいわれる(カンバ族なども活動した)チベット独立運動が渦巻いた1970年代後半に、ネパールの秘密警察に利用され、最後には消されたのでは、とみられている。ペンパ・ツェリンさんの後を継いだハクパ・ギャルブさんの弟はバングラデッシュで勉強した技術者で、建設会社の責任者としては生物学科をでた畑違いのハクパさん以上に必要不可欠の人だったにもかかわらず、自殺をしてしまったのである。

  現在のネパールはバブル的な成長経済とも言われるが、21世紀が始まる直前の20世紀末のネパールは大変革の時代で、多くの人々はその波にのまれてしまったような気がするのである。旧KCHにとってなくてはならなかったタワーさんも、またタワーさん同様アルコール中毒で体を痛めて亡くなった奥さんも、そうした人たちであった。旧KCHもまたしかり、玄関前の1本の松の木は大きく成長したが、他の1本の松の木は枯れたえてしまったことがネパール社会の、同時にまた人々のこの時代の変化を象徴しているようだ。

  そのような人たちを押し流してきた20世紀末から21世紀初めのネパールに、2015年春、巨大地震が襲ったのである。

*ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html
*追悼 井上治郎さん
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013_09_01_archive.html

PS
KCHの前後
  KCHの前身は、1974年、ターメルの北のゴルクファカに間借りした家および、その後にシンガダルバールの東のドビ・コーラの辺に借りた一軒家、通称「ヒマラヤ・ヴァーワン(館)」であったが、1970年代後半以降のKCHは、鶴巻さん、渡辺(興)さん、山田さん*や門田さん、および貞兼さんたちによって維持・管理されてきた。

*カトマンズ・クラブ・ハウス
北海道大学山の会 (2015年) 寒冷の系譜, 北大山岳部九十周年記念海外遠征史. pp.359-360.

   最後に、タワーさんの子供のことであるが、長男のアン・ナムギャルさんは自殺してしまったが、次男のフジ・ザンブーさんと長女のカルシャン・ディキさんはともにニューヨーク周辺に住んで、ザンブーさんは運転手、ディキさんは看護婦として豊かに生活しているそうです。ディキさんは独り住まいのようですが、ザンブーさんには2人の子供があり、ともに聡明で、医学関係の仕事をしています。ザンブーさんとディキさんともども外国暮らしとは、そのルーツは、日本やドイツでの生活が長かったタワーさんの血を受け継いでいることのあらわれではないでしょうか。

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