2024年5月1日水曜日

環境への取り組みかたー私の決意―

環境への取り組みかたー私の決意―

 

1) はじめに

1995年春、あの阪神・淡路大震災の後、13年間つとめた琵琶湖研究所から新設の滋賀県立大学環境科学部に私は移った。その際、「私の環境学」の基本性格として「トップ・ ダウンに流されず、ボトム・アップを重視するユニークな大学」になったらいいなーと考えて、新天地に向うー私の決意―を環境科学部の年報第1号(資料1)で表明した(2章参照)。私の決意の原点は「Think globally, act locally」の従来の標語を逆転させて、「Act locally, think globally」の地元からの行動、つまりボトム・アップを重視する琵琶湖研究所で行ってきた経験だった(資料2)。さらに、そのための具体的な教育方針を『私の授業「講話(講釈・談話)型講義とサロン型部活顧問」』(資料3)と題してのべた(3章参照)。言ってみれば、阪神淡路大震災や能登半島地震などの自然災害の場合でも、住民にとっては、「Think globally.」が最初にくるのでは決して行動指針にはなりえず、まずはボトム・アップを重視する「Act locally」の方針で行くしかない、のである。

資料1
私の(県大)環境への取り組み
滋賀県立大学環境科学部年報第1号(1997年3月31日 発行)
http://www.ses.usp.ac.jp/nenpou/np1/np1fusimi/np1fusimi.html
資料2
琵琶湖
https://glacierworld.net/regional-resarch/japan/biwalake/
資料3
講話(講釈・談話)型講義とサロン型部活顧問
滋賀県立大学環境科学部年報第2号(1998年3月31日 発行)
http://www.ses.usp.ac.jp/nenpou/np2/np2mokuji.html
 

2) 私の(県大)環境への取り組みー私の決意―

 

写真1 ネパールでの調査風景     写真2 年報第1号の「私の環境学」目次

滋賀県立大学環境科学部年報第1号であたえられたテーマは、「私の環境への取り組み(環境学の広さ、深さ、複雑さを踏まえ、社会との関連を含め、環境に対する考え方、研究活動、教育活動など、環境学における各人の姿勢や取り組みを自己主張する)」ということで、なにやら「環境優等生」のレポートが期待されているかのような感じがして当惑したが、やはり私は、最近発行された滋賀県立大学(県大)環境サークルK季刊誌"おおなまず"創刊号にのべられている「それ(県大)は、期待してええもんなんか?…… 分からん。ただの流行でつくられた、へったくれの地方大学になるかもしれんし、未来を明るくしてくれるかもしれん。」という指摘にかかわる当事者の1人と して、このあたえられたテーマに対する答えとしては県大環境とのかかわりにおける私を語るのがいちばんふさわしいのではないか、と考えた。とにかく、私は県大環境に身をおいている。しかも、私のすべてではないにしても、たぶん半分をこえる時間をそれにさいているのだから。したがって、現在までの「私の (県大)環境への取り組み」をのべれば、当惑を禁じえないこのテーマへの私の半分以上の答えにはなるであろう(写真1と2)。
 そもそも県大の第1日目、私たちは滋賀県庁に集められ、ある書面への署名・押印を求められた。ある書面とは、はなはだ頼りない書きかただが、宣誓書だったか、契約書だったのか、確認のため学部事務に閲覧を申しこんだが、そういうたぐいの書面はおいそれとは見せてもらえないものらしく、現時点でも再会できずにいる。さて、その書面には「(署名・押印者は)多数のためにであって、少数のために行動するのではない……」というような文言があった。私に とっては、あまりにも突然の署名・押印要求だったので、まずそこにひっかかった。研究にたずさわる者は、はたして、こういう書面に署名・押印するものだろうか?そこで、次のようなことを大学事務局長に問わざるをえなかった。「研究者として、新しい成果を公表するときは、(多数のためにであって、少数の ために行動するのではない)などということはあまり眼中にない。うまくいけば結果として、多数のためになるかもしれない。しかし、少数のためだけに終わるかもしれない。また場合によっては、空ぶりに終わるかもしれない。ともかく、「だれだれのため」というのは、研究者にとっては口はばったい表現のように思う。だから、自分という少数の研究者の考えで活動するしかないが、それでよいのでしょうか?」。おかしなことをいう奴だわいというような顔をしながら局長さんは次長さんたちとも協議の結果、「それでよい」ということになったと私は理解したので、多分私もおかしな顔をしながら署名・押印したのであった。 その議論のなかで、私は考えた。(なにしろ、いろいろな方々が「県大はユニークな大学である」と表現してくれていたので、その基本性格として県大は「トップ・ ダウンに流されず、ボトム・アップを重視するユニークな大学」になったらいいな。いわんや「駅弁大学やコンビニ大学」的になってほしくない。)そんなふう にして、県大での私の第1日目はスタートした。
 その考え方を環境科学部に反映するための議論が、スタート直後の第2回教授会議事録として残されている。「教授会の運営について意見があり、 (1)教授会は教授で構成することとし、情報交換のため教授会の他に教員全員の会議を2ヶ月に1度くらい開催する。(2)自発的に研究会を組織すべきで、それを学部が支援する」などとあり、なぜわざわざ「教授会は教授で構成する」とことわっているのか説明がないとともに、この議事録では「教授会の運営について」、どんな意見があったのかは不明である。そこで、もともとの議事録案を見ると、次のように記されているのである。「提案事項; 伏見教授から、次の意見があった。(1)情報流通をよくす るために、教授会に教授以外の教員を参加させること。(2)トップダウンでなく、ボトムアップで研究会を組織すべきこと。(3)学部長控え室を研究協力室 という名称に変えるべきこと。」との前段があり、前期の議事録につながっているのである。私がいわんとした(1)(3)は、ボトム・アップという下から の情報発信を重視し、できるだけオープンな研究環境をつくるということだった。
 さらに、そのような私の考えかたは、県大を元気にする会が昨年まとめた"県大語録"にも表れている。つまり、「大学内のものごとの決まり方は、いわゆる評議会をはじめ教授会から情報が下りてくるトップ・ダウン方式が強すぎるのではないか。この方式は開学前からすでに決まっていたもののようだ。が、この1年間をふり返ってみる と、このトップ・ダウン方式ではさまざまな矛盾が吹き出している、と思う。というのは、これでは、私たちの主体性を発揮しにくいからである。そこで、各種の場で、下からの意見をできるだけもち上げていけるボトム・アップ方式も機能するシステムづくりが必要ではないか。私たちが納得できるキャ ンパス環境を作るために。そして、その新しいシステムが、大学のユニークさを創る原点になるといいな、と思うのですが」と記されている。このようなボト ム・アップ方式は、昨年から行われるようになった原発問題の新潟県巻町や米軍基地問題の沖縄県の住民投票とも基本的には同じ手法であり、今後の環境課題解決のための取り組み手法として、ますます重要になっていくだろうことを考えると、県大環境においてもボトム・アップ方式がますます定着していくと良いのに、と 思わざるをえない。

そもそも私は、県大への赴任挨拶状で次のようにのべているのである。「この春から、私は滋賀県立大学にきました。新設の大学で、ご覧のように 「環境」の名前が3つもつくところにいます(環境科学部環境生態学科地球環境大講座)。そこで、さらに「環境」を冠した「環境フィールド・ワーク」や「自然環境学」、「環境地学」などを新入生たちとやりますが、いわゆる冠講座的なものにはしたくありません。そのための環境整備の1つとして、サロン・ワーク にはできるだけ力点をおき、自由闊達な根っこの議論をもとに、建設的なる批判精神の酒を発酵・醸造していきたい、と考えています。ぜひとも、私たちのサロ ンにお立ち寄り、一献を傾け、談論風発していってください。ところで、これまで勤めていた大津の琵琶湖研究所より淀川流域を北進しましたので、「琵琶湖・淀川流域」の上下流(南北)問題ではさらに「北の立場」にも、また「地球環境」ではネパールなどでのこれまでの経験から「南の立場」をも重視し、南北全体を観ていきたい、と考えています。琵琶湖・淀川流域の北の立場は、地球環境の南の立場に通じるのではないか、と見ています」。国際的なシンポジウムなどで、先進国北側の代表が「持続的開発の時代から持続的管理の時代へ」などと発言しようものなら、開発途上国南側の代表は「いぜんとして持続的開発の時代である」 ことを強く主張して、会議は平行線をたどることがあるが、南側も北側も納得できる論理はどのあたりにあるのであろうか。
 発展途上国と先進国とで考え方の異なる概念、つまり「持続的開発」でも「持続的管理」でもなく、南側も北側も納得できる概念として「持続的環境」の創造が重要なのではないか、と考えている。企業的発想の「持続的開発」とか、行政的発想の「持続的管理」という概念それ自体は目的ではなく、「持続的環境」を創造するための手段である、と解釈できる。「環境」というのもあいまいさの残る表現だが、ボトム・アップ思考からみると、ヒトだけでなく環境を構成するすべての構成員が持続的であること、それが目的になる、と考えたい。そう観れば、発展途上国の南側も、先進国の北側も「持続的環境」とい う共通性があるので、歩みよれる地盤ができるのではあるまいか。そのためのひとつの鍵は、前述したように、日本でも去年からはっきりしてきた新潟県や沖縄県などの原発や基地問題などを問う一連の住民投票行動にみられる、民意を実現するためのボトム・アップ方式であろう。今年は、産廃施設問題でゆれる岐阜県御嵩町などでも住民投票が行われることになった。当然のごとく、主人公は、企業的「開発」者や行政的「管理」者というトップ・ダウン的な思考を得意とする人たちではなく、ボトム・アップの発想をする住民なのである。そんなボトム・アップ思考の大切さを、学生とのつきあいのなかで再認識している今日この頃である。
 歴史をさかのぼれば、古生代末や中世代末などの生物大絶滅期をのぞけば、地球環境は多少の地質学的な変動をともないながらも、それなりに進化をとげてきた「持続的環境」とみなせる。急速な都市化(文明化)に苦しむカトマンズ的な人たちなどが、サーベル・タイガーのように定向進化的に滅亡の道をたどろうとも、いぜんとして自給的・リサイクル的な生活を営むヒマラヤ高地の山村の人たちは、将来ともども悠久なる生活の営みを続けていける可能性(実力)を秘めている、と考えたい。そう解釈するのは、はたして開発途上国の南側からみれば、楽観的すぎるであろうか、それとも先進国の北側からみれば、悲観的すぎるであろう か。

去年の夏は、学生たちとネパール・ヒマラヤのフィールド・ワークを行い、全員で4500mの氷河横断をすることもできた(写真1)。その内容は、昨年の湖風祭のとき、各学生がそれぞれのテーマをまとめて発表したので、みなさんの中にはご存知の方があるかも知れない。できれば将来は、このような学生たちの外国の フィールド・ワークにたいしても一種の「特別実習」として単位をあたえていければ、と考えている。同じように、人間文化学部の学生たちは、モンゴルなどへ行ってきたとのことだが、外国での新しい経験は必ずや学生たちの将来の糧となり、学生たちをひとまわりもふたまわりも大きくすることであろう。学生たちとのヒマラヤの旅は私にとってもかけがえのないものとなったので、その気持ちをおさえきれず、次のように記したのであった。
 「滋賀県立大学のフィールド・ワーク・クラブの部員と、ヒマラヤの環境問題を調査した。調査内容は、ネパールの首都カトマンズの水・大気・ゴ ミ問題など、および、カトマンズ北方のランタン・ヒマラヤの村々までの自然・社会環境の実態と課題を踏査することであった。ランタン・ヒマラヤは、私に とって21年ぶり。ヒマラヤへの旅は、カトマンズから離れるにしたがって近代化の影響がしだいに少なくなるので、あたかも歴史をさかのぼるタイム・トンネルをくぐるかのようだった」。およそ二昔前のヒマラヤの面影を重ねあわしながら、同時に、かつての日本の姿をみいだす旅ともなった。
 ボトム・アップを重視する私は、大学の主人公は学生だ、と考えている。なぜなら、授業料というお金をはらっているのは学生、給料をもらっているのは教職員だからだ。お金をもらっている者が主人公面をすることはできぬ、と考える。教職員は、主人公の学生への一種のサービス提供者とみなせるであろう。そこで私は、琵琶湖からの発想に重きをおいた講義のかたわら、環境サークルKやフィールド・ワーク、ジオ・サイエンスなどのクラブ活動の顧問をつとめるはめになり、当然、地球環境大講座のサロンなどで夜な夜なのつき合いもふえてくるが、学生とのつきあいを大いに楽しんでいるところである。なにしろ新しい県大であるからには、部活については学生も私もはじめてのことなので、なにかにつけ手探り状態だ。しかし、学生たちの主体的な活動には目をみはるものがあり、よくいわれる「今ごろの学生達は」という発言がいかに的はずれの批判であることかということを常々実感している。

3) 私の授業―講話(講釈・談話)型講義とサロン型部活顧問―

 

写真3 フィールドワークの積雪調査風景        写真4 年報第2号の「私の授業」目次

  滋賀県立大学環境科学部年報第2号で「私の授業」(写真3と4)という題で書くようにとのお達しであるが、「授ける」とか「教える」といった大上段に構えてふるまう上からの一方向的な「授業」や「教育」をしようとは思わない。むしろ、堅苦しい言い方だと「講義」になってしまうのだろうが、私自身の姿勢としては「講話」(できるなら「講釈・講談」にしたいところだが、なかなかそこまではいかぬ)のつもりで、学生の考えをできるだけ「汲みとり」たいのだ。ここでは、とりあえず「講義」なる表現を使うが、場合によってはむしろ「談話」でも良いのではないか、とも思っている。

というのは、授けたり、教えるといった、ともすれば一方向的なやり方よりも、学生が自分自身で考える力を持つことが重要だと考えているからだ。そこで、私の講義の場合は毎回最後の30分を使って、講義内容についてのレポートを書いてもらうことにしている。ただでさえ、レポートに追いまくられている学生の身にとってみれば、レポートを夜の宿題にするのは忍びない(資料4)ので、短い時間ではあるが講義時間内に、学生自身の個性的な考え方をレポートでまとめ、文章で表現する力がついてくれれば良いのだが、と考えたからである。

私の担当している1997年度の講義は、滋賀の自然史、自然環境学2、地学1、地学実験、環境地学、環境フィールドワーク2、環境フィールドワーク3、自然環境実習1、自然環境特別実習(写真3)、専門外書講義1、専門外書講義2であるが、来年度はこれらに自然地理学、環境生態学演習、卒業研究が加わることになっている。それぞれ多様な内容を含んでいるので、上記のような考え方で講義を進めようとすると、学生数が232名の滋賀の自然史や200名の自然環境学2だと、やはりかなりしんどいところもあるが、追いまくられながらもなんとかこなしている。

ただ、30名前後と学生数が少ない環境地学では、学生1人ひとりの顔が見えるので、滋賀県の具体的な環境問題を取り上げながら、小人数のグループで課題解決のための討論を行った後、口頭発表の経験を積むことに重きをおいている。そうすることによって、地学的な環境課題の解決に関するレポートを書くことに加え、討論後の口頭で発表する力も備わってくれればと願っているところである。

なかには、講義最後のレポートの時間に飛び込んでくる学生や、そもそも講義には出ずにレポート用紙だけを取りに来る学生もいるにはいるが、講義の時間内に出さなかったレポートは原則として減点することにしており、遅れたレポートは内容がよほど良くないと点をやらないことにしている。採点のポイントは、どれだけ個性的に考えたか、に重きをおく。そのため「H2O2の見方で書くように」と学生にいっているのは、過酸化水素のことではなく、H20Opinion­H2O2のことで、琵琶湖などの水に関係する地元の環境課題の解決に向って、できるだけ学生自身の経験から発想した個性的な意見をだして欲しいからである。

以上のような講話・講釈・談話型講義に加えて、日高敏隆学長の言う「学生を育てる大学ではなく、学生が自分で育つ大学」の見方からすれば、私が顧問を務めている環境サークルK、フィールド・ワーク・クラブ、ジオサイエンス・クラブ、学園新聞社、民族音楽部などのクラブ活動の場を通じて、学生たちが個性的に活動できるよう微力を尽くすのも、また極めて重要なことだ、と肝に命じている。

資料4
宿題をなくして1年…校長の思いと子どもたちの変化
2024年4月26日 19時08分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240426/k10014432801000.html
 

4) 追記

ここで述べた決意表明からほぼ30年たった今も、私の基本的な考え方は変わっていない。だが残念ながら、東京電力柏崎刈羽原発の再稼働問題については、すでに30年ほど前に「そのためのひとつの鍵は、日本でも去年からはっきりしてきた新潟県や沖縄県などの原発や基地問題などを問う一連の住民投票行動にみられる、民意を実現するためのボトム・アップ方式であろう」と指摘していたのにもかかわらず、ほぼ30年たった今でも、刈羽原発の再稼働は「住民投票でやるべきだ」との議論が依然として現在も行われている(資料5)のだ。30年ほど前の同一場所の同一課題であったかつての原発の再稼働課題が未だに解決されていないのは驚くほかはない。一体全体、この30年の貴重な時間の経過は何であったのであろうか。まさに、「失われた30年」(資料6)になってしまったかのようで、嘆きたくなる。さらにまた、沖縄の辺野古の基地建設反対に関する県民投票で約7割の県民が支持していたのにもかかわらず、最高裁判所の判決で沖縄県側が国側に敗訴した(資料7)ことはどうしたことか。ボトム・アップによる各自の主体的行動には責任がともなうことは覚悟せねばなるまいが、その責任を果たすことで、達成・充実感をえたいとの願いがボトム・アッの行動の原点にはあると思われるのだが、民意を実現するためのボトム・アップ方式の実現はまだまだ道半ばである日本の現実は何としてももどかしく、内心忸怩たる思いがする。

しかしながら、「特技は人の話をよく聞くこと」と述べた岸田総理の初心表明が本当にそうであってほしいと期待はしていたのではあるが、ボトム・アップ方式のようにして国民の声を聴くという彼の姿勢はほとんど期待外れになってしまったようだ。その岸田首相は実はトップ・ダウン方式の信奉者のようにふるまうようになり、最近のアメリカへの国賓旅行で一層アメリカ依存の方向性を打ちだした(資料8)のである。その傾向は軍事面で顕著で、その背景として目を世界に向けると、戦争・紛争などが各地域で同時進行していることが反映しているようだ。ウクライナやパレスチナ自治区ガザ、さらに中国や北朝鮮の動向などである。いずれも、各国の政策責任者であるプーチン・ネタニヤフ・習近平・金正恩各氏の自己保身の意向をむきだした自衛行為の反映のように思えてならない。そこで忘れてならないのは、ガザ地区で殺害された犠牲者3万4097人のうち、少なくとも72%は女性と子ども(資料9)であるという実態で、戦争・紛争ではまさにボトム:アップの主人公であるべき物言わぬ人たちが最大の犠牲者になっているのが悲しい現実だ。

このような世界各地での戦争状態勃発の中で、日本にもその事前状況を示すきな臭さが立ち始めているのを感じるのは私ひとりのみであろうか。岸田首相も、上記の各国の政策責任者同様に、自己保身の政策に突き進んでいるのがその背景にあるのではないか。はたして、トップダウン的な「持続的開発」でも「持続的管理」でもなく、住民の視点で、その地域にふさわしいボトムアップ的な「持続的環境」を創造することは可能であろうか。その課題を解決するために、内閣支持23%、不支持58%(NHK;資料10)や内閣支持率22%、不支持率74%(毎日新聞;資料11)の内閣の支持率の低さと不支持率の高い民意を背景に、ボトム・アップ方式で民意を実現するための選挙で政治課題を解決することが現実的であるように思われる。4月28日の衆議院の3つの補欠選挙(資料12)で変化の兆しが表れると良いのだが、と期待をこめて注視していたところ、案の定、東京と長崎で候補者を立てられずに不戦敗した自民党は、唯一候補者を立てた保守王国といわれた島根1区でも敗れ、「全敗」を喫した。事前の予測通り、内閣の支持率の低さと不支持率の高い民意の厳しい審判で自民党の姿勢にボトム・アップで「ノー」を突きつけた(資料13)のである。今後も、今回の選挙のようなボトム・アップ動向が鍵を握るよう期待したいが、今回の投票率は島根1区が54.62%、東京15区が40.70%、長崎3区が35.45%(資料14)で、いずれもこれまでで最も低くなったことはボトム・アップの力を示すことができる投票率向上が依然として基本的な課題として残されている。世界の国政選挙投票率ランキング(資料15)では、1位のベトナムの99.26%は別格としても、191ある各国のなかで日本は145位の53.68%で、東京は181位のマダガスカルの40.00%、長崎は186位のヨルダンの36.13%並み投票率であることは自覚しておくべきであろう。

長崎県選管によると「この選挙区で登録していた在外有権者163人のうち、実際に1票を投じたのはわずか2人だった」そうで、在外選挙制度の改善を求める「海外有権者ネットワークNY」(米ニューヨーク州)によると「公館が近くにない有権者は投票するのに宿泊や長時間の移動を強いられる」ことなどが課題になるため、ネット投票が検討されているが、「本人確認や投票の秘密を守るセキュリティー面」などが懸念されている(資料16)。ネット投票は在外選挙のためだけではなく、国内の若者の投票率向上のためにも検討されてしかるべきであろう。

資料5
米山隆一氏、再稼働の意思確認は「住民投票でやるべきだ」 判断材料まだ不足 東京電力・柏崎刈羽原発
2024年4月18日 06時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/321822
資料6
失われた30年の教訓 人材生かす経済に転換を
毎日新聞 2024/4/30 
https://mainichi.jp/articles/20240430/ddm/005/070/024000c
資料7
「沖縄の民意踏みにじった」玉城デニー知事が辺野古新基地の代執行を批判 「LIN-Net」集会で講演
2024年4月20日 20時01分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/322532
「何のための県民投票か」発起人の32歳、辺野古の“今”に危機感
毎日新聞 2024/2/17 10:00(最終更新 2/17 11:04)
https://mainichi.jp/articles/20240215/k00/00m/040/272000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailhiru&utm_content=20240217
資料8
【詳細】日米首脳 防衛協力深め幅広い分野での連携強化を確認
2024年4月11日 18時45分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240410/k10014418491000.html
資料9
ガザの犠牲者3万4千人超す、72%は女性と子ども パレスチナ保健省
2024.04.22 Mon posted at 11:10 JST
https://www.cnn.co.jp/world/35218062.html
資料10
岸田内閣「支持」23% 発足後 最低に並ぶ 政治資金問題は
2024年4月8日 19時00分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240408/k10014415391000.html
資料11
内閣不支持率74% なお続く支持率低水準 毎日新聞世論調査
毎日新聞 2024/4/21 20:48(最終更新 4/21 20:48)
https://mainichi.jp/articles/20240421/k00/00m/010/207000c
資料12
衆院・島根補選支援体制 「裏金」で自民・立憲に明暗
2024年4月21日 22:09(4月22日 0:53更新)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1003123/?utm_source=newsletter&utm_medium=mail&utm_campaign=2024042200
与野党対決の島根1区、両党首が最後の訴え 衆院3補選28日投開票
今野忍 伊沢健司2024年4月27日 20時30分
https://www.asahi.com/articles/ASS4W3FDLS4WUTFK00CM.html?iref=comtop_7_02
資料13
立民 3選挙区で当確 衆議院補欠選挙 東京15区 島根1区 長崎3区
2024年4月28日 20時00分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240428/k10014435251000.html
速報 衆院3補選、自民「全敗」 「政治とカネ」直撃 岸田政権に打撃
毎日新聞 2024/4/28 20:02(最終更新 4/28 20:32)
https://mainichi.jp/articles/20240428/k00/00m/010/161000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailsokuho
衆院3補選で自民全敗 首相への不信任に等しい
毎日新聞 2024/4/29 東京朝刊 882文字
https://mainichi.jp/articles/20240429/ddm/005/070/008000c
資料14
衆議院補欠選挙 立民 3選挙区すべて勝利 自民は議席失う
2024年4月29日 5時29分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240428/k10014435251000.html
資料15
世界の国政選挙投票率ランキングチャート
https://theworldict.com/rankings/voting-rate/
資料16
衆院長崎3区、在外投票わずか2人 「清き1票」阻む1日ルール
毎日新聞 2024/5/2 05:00(最終更新 5/2 06:35)
https://mainichi.jp/articles/20240501/k00/00m/040/208000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailhiru&utm_content=20240502
 

5) コメント

仁木義郎さんから下記のコメントが来ました。

2024/04/02
RE: お知らせ
nic-niki@my.email.ne.jp
伏見 さま
ご無沙汰しております。NIC環境システムの仁木です。「ボトムアップの決意」、読ませて頂きました。
私は初めて“sustainable development”という言葉を聞いたとき、生理的に受け付けがたい拒否感を抱きました。
アメリカインデアンなど多くの先住民を滅ぼしていった「開拓者」どもと同じ匂いを感じたのです。
先住民は、かれらの政治体制に係わらず、長い歴史の中で何度も何度も絶滅寸前になるような失敗を重ねる中で、自然のキャパシティーを知り、自分たちの暮らし方の中で折り合い点を見つけ、この大切な守るべき規範を、人知を超えた「神」の言葉として受け継いで来たのだろうと思います。「持続可能な生活」とは身を挺して得た人類共通の原理だと思っています。
持続可能とは、おそらく、このようなトライアンドエラーを受け継ぐことができる状況で初めて実現するもので、広い意味で生物の行動進化と同じものと思われます。
人類が地球を何度も破壊したり地球を沸騰させるエネルギーを扱えるだけの力を持ってしまった今、そして、個人個人の関心の大部分は今日明日の楽しみや幸せ感にあるなかで、人類が自発的に「持続可能な生き方」を見つけ出し、その生き方を貫けるかと想像すると、絶望せざるを得ません。
仮に、近い将来、人類絶滅の危機が訪れ大多数の人類が滅びたとしても、誰がその失敗を後世に伝え、後世の人間がどのようにその糧を活かし得るのかを考えると、時間的に、昔のトライアンドエラーのシステムには当てはまらない気がします。
地球環境問題の本質は世代間の資源をめぐる闘争だと思うのですが、未来の世代は全く力がないので闘争にはなりえませんね。
ただ、現在、現実的に持続可能な生活に近づけようとすると、自由経済や民主主義はかなり邪魔な気がします。
ボトムアップは個人の生き方としては美しいのですが…
勝手なことを書いて済みません。刺激的なメールだったのでつい色々考えてしまいました。
これからも、宜しくお願い致します。
追伸 伏見さんの教え子なら是非我社に欲しいです。
仁木義郎